▲米百俵の群像(千秋が原ふるさとの森)
「米百俵」の故事
戊辰戦争(1868年)で焦土と化した長岡藩に、支藩の三根山藩(現在の新潟県西蒲原郡巻町)から見舞いとして百俵の米が送られてきた。窮乏を極めていた藩士は米が分配されるのを一日千秋の思いで待った。しかし、藩の大参事・小林虎三郎は、この米百俵は文武両道に必要な書籍、器具の購入にあてるとして、米を売却した代金を国漢学校建設の資金に注ぎ込んだ。国漢学校には洋学局、医学局も設置され、藩士の子弟だけでなく町民や農民の子供の入学も許された。ここに長岡の近代教育の土台が築かれ、後年、ここから新生日本を背負う多くの人物が輩出された。
この「米百俵」の故事は、文豪・山本有三の同名の戯曲によって広く知られるようになり、「国が興るのもまちが栄えるのも、ことごとく人にある。食えないからこそ学校を建て、人物を養成するのだ」という小林虎三郎の思想は、多くの人に深い感動を与えた。


写真:松竹大歌舞伎長岡特別公演「米百俵」(昭和54年・長岡市立劇場)
小林虎三郎
文政11年(1828年)8月18日、新潟町奉行小林又兵衛の子として生まれる。崇徳館で学び、若くして助教を務めた。23歳の時、藩主の命で江戸に遊学、兵学と洋学で有名な
佐久間象山の門下に入り、長州の吉田寅次郎(松蔭)とともに「二虎」と称せられる。象山に「天下、国家の政治を行う者は、吉田であるが、わが子を託して教育してもらう者は小林のみであると」言わせるほど、虎三郎は教育者であった。教育の重要性を説く虎三郎の思想は、帰郷後に著した「興学私議」に詳しい。
長岡が戊辰戦争に敗れた翌明治2年に、焼け残った昌福寺の本堂を借りて国漢学校を開校、同年に文武総督さらに大参事に推挙される。米百俵が送られてきたのは、その翌年のことである。
虎三郎は明治4年、自ら「病翁」と名を改めているように、終生を病にさいなまれた。明治10年
湯治先の伊香保で熱病にかかり、8月弟雄七郎宅で死去。
享年50歳であった。
病翁(小林虎三郎)碑
昭和4年に没後50年を記念し、士族の代表だった松下鉄蔵らが寄付を集め建立しました。碑文には「学校を敗残窮餓の中に興し、以って人材を養成し、長岡をして今日の盛有らしむ」とあり、「食わぬから教育するのだ」という精神を伝えたい思いが込められている。



米百俵についてもっと詳しく
知りたい方へ
長岡市ホームページ「米百俵情報」へアクセスしてください。
 http://www.city.nagaoka.niigata.jp/
この百俵は、今でこそただの百俵だが、
後年には一万俵になるか、百万俵になるか、
はかり知れないものがある。
いや、米だわらなどでは、
見つもれない尊いものになるのだ。
その日ぐらしでは、
長岡は立ちあがれない。
あたらしい日本はうまれないぞ。
                        山本有三「米百俵」から

米百俵